愛媛県バドミントン協会 滝山一甫(たきやま かずすけ) 会長
 今年度より新しく愛媛県バドミントン協会会長を引き受けました。浜中前会長は愛媛県育ち、各種大会のシニアのタイトルを取り、実業団を中心に日本バドミントン界で活躍されたことは皆様ご存知のことと思います。この浜中前会長が蒔いた種を今のスタッフが育てやっと蕾をつけるようになりました。私はこの蕾を膨らませ花を咲かせるのが責務だと考えております。
 さて、私のバドミントン歴ですが、全国大会に出場したのは昭和29年(1954年)のインターカレッジが初めてです。その翌年日本のバドミントン協会が始めて国際大会に出てゆきました。それはトーマス杯アジア予選でしたが、香港に完敗しました。全員が学生であった関係もあり帰国報告会で選手が持ち帰った用具を見て(ラケット、シャトルコック)技術・体力も劣るけれども用具も全然歯がたたぬと感じました。昭和32年全日本総合選手権(於 横浜市)に出場した後、卒業と同時に関西出身ではじめてバドミントン用具のメーカー(潟Tンバタ)へ入社(ヨネックスさんがバドミントンラケットを作り始めた頃です)本格的にバドミントンを生活の拠り所といたしました。
 その後日本は女子が強くなりユーバー杯を何回も制するようになるのですが、男子は東京都でトーマス杯を開催するほど競技力も日本協会自身も力をつけました。トーマス杯はタイ国の選手団のホスト役を申し付けられ、練習や雑用に走り回りましたが、華麗なハイバックのプレーには吃驚しました。決勝はインドネシアとデンマークだったのですが、前評判はデンマーク有利というのをインドネシアのソネビルがデンマークのコップスを下してトーマス杯の防衛をなし、インドネシアからやってきた(船をチャーターして)大応援団が大騒ぎでした。このデンマークの選手団を愛媛県協会が松山へ招聘してエキシビションマッチを行ったことは記憶にある方もおられると思います。
 その後第1回アジア大会が東京都で開催され、バドミントン競技も男子のみが行われました。そして何回か後に女子も参加するようになり徳田選手が旗手を務めたほど力をつけたのは今を知る人は不思議な思いでしょう。
 日本の用具も、ラケットは河崎・ヨネックスさんは世界の水準となり、ダンロップ・スラゼンジャー等と全くひけをとらなくなり、シャトルコックもRSL一辺倒だったのがサンバタ製も使用されるようになり、それを区切りに愛媛に帰ってまいりました。
 現在の愛媛県はかつてのシニアのみではなくジュニアを指導している方々の努力で大いにレベルアップがなされ全国的な水準まで到達しております。また、それを基準に他県の高校へ進学され上達し力を発揮しております。しかし、まだ一般男女では日本のトップクラスまでは距離がありそうです。これからの課題は、如何に国民体育大会でベスト8に入り、各種全国大会でも上位にランクされ、そして世界通用する選手を育てるのが大きな目標だとかんがえております。
 何卒全会員とサポートしてくださる皆様により一層の協力をお願いして就任のご挨拶といたします。
愛媛県バドミントン協会会長 滝山一甫
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